私は文章を書く。建築が発生する前の背景を、事後的な効果を、視覚像の奥にある意味を、その場所に身体を置いてはじめて感受できる空間の質感を、伝えるために書く。文章を書くことは、それが読み出される際の音の触感や、文字の並びという視覚情報を用いて、意味という明示するべき価値を、場所と時間を越えて伝えようとする行為である。
一方、建築が発するものもまた、社会的意味、物質の触感、視覚像であり、それらから生起される空間である。その多面性において、建築は、音や文字の連なりから生起するイメージを味わう「詩」であり、「会話」に近い。場所と時間を共有した上で交わされる意味、音、視覚像(表情や身ぶり手ぶり)が会話であり、会話もまた、その場に身を置かないと感受できない行為だから。
(続きは「新建築住宅特集 2008年4月号にて)
2008年3月19日水曜日
2008年2月28日木曜日
壁の中に住む
僕は、壁の中に住んでいる。幅、2Mに満たない細い路地のような空間で寝起きしている。
壁の中に巣くってしまってしゃあしゃあとしているしたたかさ、図太さ、無神経さ、見境のなさ、そうせざるを得ないやりきれなさ、切実さ。
そういったことが
現代日本が世界に発信している価値なのではないか。
麻薬もない、宗教もない、確固たる権威もない、何もない極東の島国から。
参考:
『Less than Zero』
『LIFE AFTER GOD』
北野武の一連の映画作品
壁の中に巣くってしまってしゃあしゃあとしているしたたかさ、図太さ、無神経さ、見境のなさ、そうせざるを得ないやりきれなさ、切実さ。
そういったことが
現代日本が世界に発信している価値なのではないか。
麻薬もない、宗教もない、確固たる権威もない、何もない極東の島国から。
参考:
『Less than Zero』
『LIFE AFTER GOD』
北野武の一連の映画作品
2008年1月25日金曜日
雪の詩学
2007年11月19日月曜日
詩学と響き
最近、「詩学」と名前の付く書籍を意識して読んでいる。
「空間の詩学」
「構法の詩学」
それと同時に、音楽の仕組みである、
<作曲・楽譜・演奏・響き>のことを考えている。
作曲家の頭の中で、実際の空気をふるわせない「響き」があるのだから
建築空間においても、音が鳴っていなくても「響き」を感じ取れる空間ができるのではないか。
そういう、新しい空間言語をつくることができたらいい。
「空間の詩学」
「構法の詩学」
それと同時に、音楽の仕組みである、
<作曲・楽譜・演奏・響き>のことを考えている。
作曲家の頭の中で、実際の空気をふるわせない「響き」があるのだから
建築空間においても、音が鳴っていなくても「響き」を感じ取れる空間ができるのではないか。
そういう、新しい空間言語をつくることができたらいい。
2007年10月21日日曜日
もののあはれ
「もののあはれ」って何だろう?と、
10年以上、考え続けてきた。
きっかけは友人のH氏との対話だった。
ここに来て
ようやく理解の兆しが見えてきた。
「もののあはれ」とは、
一回性と普遍性が接続するとき
一回性が普遍性と交錯するとき
一回性の中に普遍性を見いだしてしまったときに
立ち現れる、感情の溢れ、のこと。
「嗚呼……」
と言っている瞬間に私たちは
二度と体験でいないであろう個別の体験の中に
これまでに他者が体験してきたであろうという膨大な体験性を想起し
呆然と立ちつくしている。
そう言えば建築も
個別条件の一回性と、科学的再現性普遍性の交差点に生起する営みなのだ。
10年以上、考え続けてきた。
きっかけは友人のH氏との対話だった。
ここに来て
ようやく理解の兆しが見えてきた。
「もののあはれ」とは、
一回性と普遍性が接続するとき
一回性が普遍性と交錯するとき
一回性の中に普遍性を見いだしてしまったときに
立ち現れる、感情の溢れ、のこと。
「嗚呼……」
と言っている瞬間に私たちは
二度と体験でいないであろう個別の体験の中に
これまでに他者が体験してきたであろうという膨大な体験性を想起し
呆然と立ちつくしている。
そう言えば建築も
個別条件の一回性と、科学的再現性普遍性の交差点に生起する営みなのだ。
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