2007年11月19日月曜日

詩学と響き

最近、「詩学」と名前の付く書籍を意識して読んでいる。
「空間の詩学」
「構法の詩学」

それと同時に、音楽の仕組みである、
<作曲・楽譜・演奏・響き>のことを考えている。

作曲家の頭の中で、実際の空気をふるわせない「響き」があるのだから
建築空間においても、音が鳴っていなくても「響き」を感じ取れる空間ができるのではないか。

そういう、新しい空間言語をつくることができたらいい。

2007年10月21日日曜日

もののあはれ

「もののあはれ」って何だろう?と、
10年以上、考え続けてきた。
きっかけは友人のH氏との対話だった。

ここに来て
ようやく理解の兆しが見えてきた。


「もののあはれ」とは、
一回性と普遍性が接続するとき
一回性が普遍性と交錯するとき
一回性の中に普遍性を見いだしてしまったときに
立ち現れる、感情の溢れ、のこと。



「嗚呼……」
と言っている瞬間に私たちは
二度と体験でいないであろう個別の体験の中に
これまでに他者が体験してきたであろうという膨大な体験性を想起し
呆然と立ちつくしている。


そう言えば建築も
個別条件の一回性と、科学的再現性普遍性の交差点に生起する営みなのだ。

2007年9月25日火曜日

粗っぽくもずしんとくるもの

あるひとつの建築現場が終わる。

工務店の現場担当者、大工、電気屋、水道屋、土工事の職人、
その他諸々の、職能を持った人たち。
彼らはどこからともなく現れて
世界にひとつだけのものを
ある意図の元につくり、
自分の仕事が終わるとまた
どこへともなく去っていく。

サザンの「旅姿六人衆」そのままに
毎回違うクライアントのために
自分が発揮しうる能力を
要求に合わせて発揮して
偉ぶることも、自慢するでもなく
さらっとやってのけて
街から街へと
無言で去っていく。

ひとつの建築が一応のまとまりを見せる、つまり竣工すると
「あぁ、あそこはもっとこうできた」
「何であのときに踏ん張れなかったんだろう」
と、必ずと言っていいほど、
悔いや自省や後悔が、発生する。
どんなに完璧だと思っていても、必ずその瞬間が訪れる。
これはもう宿痾だとすら思う。
後悔のない現場があったら、
それで建築を打ち止めにしてもいいとすら思わなくもない。



また別の街で
いえづくりが始まっている。

そこで実現できるかわからないが、
「粗っぽい、それでいて
ずしんと来る。」

そういうものを、わたしはつくりたい。


感傷ではなく
そう思う。

2007年5月31日木曜日

コンクリートについて

コンクリート打ち放しというのはやっかいなものだ。構造体と仕上げ材が一体成形され「そこにすべてがある」という根本的な状態と、それさえあれば地震台風火事を凌ぐことができるというピューリタン的実用性をして、コンクリート信奉者はよしというのだが、私はどうも好きになれない。特に外壁にそれを用いたとき、断熱性に乏しいことと、外部の劣化はどうにも防ぎようがないように思え、それらの性能を上げようとすると途端に断熱を付加するなり仕上げを加えるなり、表面に透明なコーティング(撥水材と呼ばれるウレタン塗装)やコンクリート打ち放し風の塗装を施すなりされて、うさんくさいものに即座に成り代わってしまう。たとえば撥水材に顔料を混ぜれば、人が触れているのは実は単なるペンキ仕上げである。
これにはもう少し実体験的な原風景がある。建築を志した頃のことである。私たちの母校の校舎もコンクリート打ち放し仕上げだった。過去形なのは、外壁の劣化が進んでしまったために、在学中に外壁にウレタン吹き付け塗装が施されてしまったからだ。それまで20年強の月日をその表面に刻みこみ年月の積み重ねが深い味わいになっていた壮年の母に、不釣り合いな真っ白な白粉を塗りたくられたような衝撃を受けたものだ(ちなみに内部は打ち放しのまま風合いが保たれている)。また、子供の頃に住んでいたコンクリート造の団地の屋根の遮熱性の悪さも記憶の奥底から沸々と湧いているのかもしれない。
そういう主観的な衝撃と客観的な性能のデメリットが綯い交ぜとなって、コンクリートに対する忌避感が醸成されてきたに違いない。

だから僕は、少なくとも外部に露出する形ではコンクリートを使いたくない、と考えている。

2007年5月15日火曜日

Mt. Fuji



中央自動車道にて。
Ricoh GX-100
digital controlled
2007.04.30

2007年5月2日水曜日

letters starts

設計事務所としてのライフアンドシェルター社の公式ブログとは別に、
個人のブログを始めることにしました。

どこまでオープンにするか分かりませんが
とりあえずは個人的なつながりのある人が見てくれればいいと思っています。