2010年3月30日火曜日

チープ・ゴシック


チープな素材を使いながら、荘厳な、ゴシック的といってもいい空間がつくれたらいい。

間伐材とか、プラスチックとか、ベニヤとか。

いや、プラスチックはもはやチープではないか?

写真はFlickrにアップロード。

動的平衡システム/木材の住科学:有馬孝禮

『木材の住科学』有馬孝禮(東京大学出版会)読了。

あとがきから抜粋
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(前略)資源循環を主体とした社会の連携と仕組みや政策を考える時期になっている。それは「育てて、使う」農耕民族の発想であり、人類が一方でたどってきた、とりわけ産業革命以来20世紀までの狩猟民族の発想からの脱却である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

建築物が循環社会の中で価値があるものとして位置づけられるためには、メンテナンスや再利用、再生産の具体的仕組みが伴った、動的平衡状態・動的平衡システムを整備する必要があるだろう。

本書は、あとがきの上記抜粋にいたる前段階の、具体的バックグラウンドやデータが整理されている良書。

2010年2月2日火曜日

あたらしいこと、と向き合う

あたらしい、ということに無自覚になっていないか。

クライアントは、自分の子供を誘拐されたように思っていないか?そう思うかもしれない彼らの不安を背負って、新しさと呼ばれるものに向き合っているか?

新しさ、に、人の意識が向くのは、そこに常に意味があるからではなく、意味があるかどうか、危険かもしれないことも含めて、意識が向くではないか。
好奇心、という言葉があるからと言って、人間が本質的に奇抜で新しいものを「好む」というわけではないと思う。

一方で、もう新しいものはない、古いもの、伝統的なものを継承していけば良い、という姿勢にも、強い疑念を持っている。

もう新しいものはない、と、これまで何度も言われてきたが、いまでも、これまでに見たことのない現象、空間、楽しさが現れている。

もう新しいものはない、という姿勢の奥底に、すべてを見てしまった、知ってしまった、もう充分である、という充足感があるのではないか。この充足感が催す薄ら笑いに、薄気味悪い感じを覚える。僕らはそんなに「きて」しまったのだろうか、と。歴史の末端まで、行き着いてしまったのだろうか、と。

充足感自体が悪いとは思わないが、悟り、に近い感じには、えも言われぬ違和感がある。
悟りを表現する状態として、無限感、全能感、世界のすべてを知ってしまった感、があるという。


そんな傲慢な人に、僕はなりたくない。僕はそんなにすべてを知ってしまったわけでもなく、知ることができるわけでもなく、人間はそんなに超常的で超越的な能力を持っていないと思う。少なくとも、そちら側には立ちたくない。

かくいう僕も、かつて、若かりし学生時代には、たまに、全能感が脳内に溢れる感覚を催したものだ。今思うと厚顔無恥で、自分で自分を殺してしまいたいと思うくらい恥ずかしい。

根拠のない自信、安直な全能感、薄ら寒い悟り、それらに満ち足りて幸福感あふれる態度。
そんな態度を取るくらいだったら、不安にまみれて、できないことにがんじがらめになって、雨の日に道ばたに落ちている目の前の石ころを眺めて歩いていきたいと思う。

2010年1月25日月曜日

「かっこいい」ということ

かっこいい、スタイリッシュ、イケている、の理論化をしようと考えている。理論化、というと少し大げさな感じもするけれど、よくよく考えてみたいのです。

建築を考え、見て、「かっこいい」と感じることがあったとして、これまではそれがうまく言葉に乗らなかった。別の表現、「スタイリッシュ」だったり「イケている」、「シュッとしていていいねー」「この、ズバっというところがいい」と言ってみても同じで、言葉の世界・意味の世界の人には伝わらなかったりする。

一方で、言語化されていなかった感覚を理論化=言語化すると、再び、言葉の世界で勝負しなければならないことになる。別の言い方をすれば、これまで右脳で感じ取っていた要素が再び左脳化されるのだけど、それを承知で、言語の世界の人に、意味の世界の人にも、「かっこいい」ことの価値を伝えることを目指してみたい。

いま感触としてつかんでいるのは、下記。
「かっこいい」という感覚は、現実の事物に対して、少しだけふわっと浮き立つような感覚、もしくは少しだけ緩んでカームダウン、リラックスするような感覚。意味を書き連ねる新聞や実用書に対する、詩・小説のようなもの。

2010年1月20日水曜日

時間とともにある







先週末、黒磯の【S/N】へ。外壁を塗り直したので、その視察を兼ねて。


メディアは新しいものを取り上げる事に長けているが、
じっくりと物事に向き合っていくことはできない。
そもそもそのような役割でもなければ、そのような仕組みもない。

モノをつくり出していく僕たちは、

つくりっぱなしではなく、モノが持つ時間と並行的に付き合っていく立場にある。

メディアでは捉えられない、建築が持つほとんどの魅力は、時間とともに、場所とともにある。