あたらしい、ということに無自覚になっていないか。
クライアントは、自分の子供を誘拐されたように思っていないか?そう思うかもしれない彼らの不安を背負って、新しさと呼ばれるものに向き合っているか?
新しさ、に、人の意識が向くのは、そこに常に意味があるからではなく、意味があるかどうか、危険かもしれないことも含めて、意識が向くではないか。
好奇心、という言葉があるからと言って、人間が本質的に奇抜で新しいものを「好む」というわけではないと思う。
一方で、もう新しいものはない、古いもの、伝統的なものを継承していけば良い、という姿勢にも、強い疑念を持っている。
もう新しいものはない、と、これまで何度も言われてきたが、いまでも、これまでに見たことのない現象、空間、楽しさが現れている。
もう新しいものはない、という姿勢の奥底に、すべてを見てしまった、知ってしまった、もう充分である、という充足感があるのではないか。この充足感が催す薄ら笑いに、薄気味悪い感じを覚える。僕らはそんなに「きて」しまったのだろうか、と。歴史の末端まで、行き着いてしまったのだろうか、と。
充足感自体が悪いとは思わないが、悟り、に近い感じには、えも言われぬ違和感がある。
悟りを表現する状態として、無限感、全能感、世界のすべてを知ってしまった感、があるという。
そんな傲慢な人に、僕はなりたくない。僕はそんなにすべてを知ってしまったわけでもなく、知ることができるわけでもなく、人間はそんなに超常的で超越的な能力を持っていないと思う。少なくとも、そちら側には立ちたくない。
かくいう僕も、かつて、若かりし学生時代には、たまに、全能感が脳内に溢れる感覚を催したものだ。今思うと厚顔無恥で、自分で自分を殺してしまいたいと思うくらい恥ずかしい。
根拠のない自信、安直な全能感、薄ら寒い悟り、それらに満ち足りて幸福感あふれる態度。
そんな態度を取るくらいだったら、不安にまみれて、できないことにがんじがらめになって、雨の日に道ばたに落ちている目の前の石ころを眺めて歩いていきたいと思う。